2011年11月21日月曜日

150年前の11月21日は・・・


ドイツ皇后ヴィクトリア21歳の誕生日。イギリス女王ヴィクトリアの長女、第一王女でドイツ皇帝・プロイセン王フリードリヒ3世の妃。そしてヴィルヘルム2世のお母さんだニャ。愛称は「ヴィッキー」でフリードリヒ3世は「フリッツ」だって!ヴィクトリア女王とアルバート公はヴィッキーを溺愛して「この子が男の子であれば・・・」と悔やんだ程だったんだ。
1858年1月25日にフリッツと結婚したヴィッキーは、ベルリン王宮にて盛大な晩餐会を行いプロイセンの貴族たちに温かく迎えられたんだって。でもプロイセン首相ビスマルクはこの結婚でイギリスからプロイセンにドイツ領邦の統一に関して口を挟んでくるのではないかとヴィッキーを憎悪したんだって。
二人の息子を幼くして亡くしたヴィッキーは病院作りに力を入れたんだ。ヴィッキーは結婚前にフローレンス・ナイチンゲールと出会い、衛生学や病院管理について学んでいて、1870年、ヴィッキーは戦場が近いハンブルクの古城に移住して、私財を投入しそこを病院に作り変えたんだ。
ま た、「ヴィクトリア・ハウス」という看護学校も設立したんだ。「ヴィクトリア・ハウス」は看護婦養成だけでなくて、貧しい人々への衛生指導にもあたったん だ。ヴィッキーとフリッツが設立した幼稚園は託児所を兼ねてて、夫婦共働きの家庭にとって非常に役立つものとなったんだって。
また、女子教 育の向上にもヴィッキーは尽力したんだ。ヴィッキーが嫁いだ当時のプロイセンは女子教育は不必要だという考え方が主流でだったんだけど、ヴィッキーは女子 高等教育のために3つの学校を創設したんだ。校長にイギリス人女性を採用したことで、この学校は人々から非難の対象となったり、当時のプロイセンでは男性 も人前で体操をすることが見苦しいことだと考えられてた体育を取り入れて、ヴィッキーに好意的だった社交界の人たちまでもが激怒したんだって。それでも ヴィッキーは諦めることなく、女子に幼稚園経営や家政学を教えて、多くの女性教師を誕生させたんだ。後にスコットランドやイギリスから留学してくる生徒も 出たんだって。フリッツは長年にわたるヴィッキーの慈善事業の成果をとっても喜んで、プロイセンの人々もだんだんとヴィッキーを歓迎するようになったん だって。
1888年3月9日にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が 崩御して、フリッツがドイツ皇帝に即位、ヴィッキーがドイツ皇后になったんだ。でも即位前から既にフリッツは喉頭癌で、余命幾ばくもないほど病に侵されて 公務に取り組めないほど病状が進行してたんだ。そこで皇后のヴィッキーが皇太子の摂政となって、皇太子ヴィルヘルムと共に皇帝代行で公務に取り掛かったん だって。ドイツ宰相ビスマルクを嫌っていたヴィッキーと皇太子ヴィルヘルムはビスマルクを無視して、自ら政務を執っていたみたい。ヴィッキーは病に倒れて いる夫を看病しながら皇后の務めであるドイツ領邦の王公妃、プロイセン貴族の夫人たちの謁見も休まず行ったんだ。皇帝代行と皇后の公務の両立は大変だった けど、疲れを貴族たちに一切見せず公務に励んだって。

ニャんか感動して、今日はちょっと長くニャっちゃったニャ=^_^=




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